大学があった町は長崎の姉妹都市でした。なにかのご縁で姉妹都市委員会を通じて、いくつかのアルバイトをいただきました。
そのうちの1つが戦後アメリカに養子として引き取られた方と日本人の生みの母親との再会の電話会話の逐次(時々同時)通訳でした。
プロ級ではないものの、何度か仕事でも通訳のお仕事をいただいたことがありましたが、一番難しいランクに入る通訳のお役だったと記憶しています。
戸惑い、感情の交差、やるせなさ。。。
そのほかにも、戦後結婚してアメリカにわたり余生をアメリカで過ごしている高齢の日本人の方々を訪問して、お話し相手をしたりもしました。(逆になつかしい和食のごちそうをいただきましたが)
日本では、祖父母から戦争中または戦後の一般市民の暮らしの話を聞いていましたが、留学中もご縁あって、戦後直後日本からアメリカに渡った方々やアメリカから日本に行った方々とも話を伺う機会が、今思えばたくさんあったと思います。
その時はあまり実感していませんでしたが、その後わたしの研究そしてキャリアは戦後復興、それにかかわる国際機関の役割にシフトしていったのです。 (つづく)